「九谷村という土地の神話性」
当たり前の事ですが、磁器や陶器というのは、その土地の土や石を使い作られる物です。
先人たちが、磁器や陶器に使用出来る土や石を見つけ、また合う土にするための研究し、完成させる為に、語り尽くせぬ苦労があったと言います。
九谷焼は、江戸時代の前半に加賀藩の支藩である、大聖寺藩前田利治藩主により始められました。
その理由の一つは、石高が少なく藩の財政が厳しかったため、新しい産業が必要になったからですが、そのためには先行する投資もまた必要でした。
また、当時日本において磁器の生成は肥前でしか成功しておらず、技術は藩の貴重な財産で現在のように技術が流通する事はなく、大聖寺藩の決断は無謀な賭けと切実さの間で、人々の信念が無ければ一歩も前に進む事は無かったであろうと容易に想像出来ます。
8月某日、九谷村に行きました。
山中温泉から数キロ山深く入り、全く人の気配が無く、ダムを2つ越えたところにひっそりと窯跡があります。
ダムが出来るまでは、九谷村を含め幾つか集落がありましたが、立退きする事を余儀なくされ、今は綺麗な川と自然が広がるのと同時に、ダムとダム湖が生み出す異様な風景がそこにあります。
先人たちが、山深い九谷村で石を採掘し土を捏ね、生成し、美しい九谷焼を努力と信念により生み出した九谷村には、もう窯跡だけが残り誰も人が居ません。
当時は、ダム建設を選択することが不可欠だったとはいえ、人々が繋いだ歴史的な土地を蔑ろにしているように感じました。
農耕民族である日本人は、狩猟民族と違い、本来あまり生まれた土地から移動しません。また、移動しても故郷に対する想いは常に持っており、「故郷に錦を飾る」という言葉の通りで、土地に対して郷愁の念を持ち続けていると思います。
また、今でも液状化してしまった都会を少し離れると美しい景色があり、土地を守っている方々が沢山居ます。
しかし、発展という魔物の元に、私達の神聖な土地を破壊して来た爪痕はいたる所に存在しています。
上出長右衛門窯の上出惠悟は、人々が繋いできた九谷焼が瀕死の状況になっている現状を愁い、九谷村に何度も訪れ、その土地から何かを感じて「幽谷」と題し作品を発表するに至りました。
技術や技法の継承とはスタイルでは無く、人々の美しい物に対する気持ちが存在する事だと思います。
上出長右衛門 上出惠悟 「幽谷」 をご覧頂き何かを感じて頂ければ幸いです。
Yoshimi Arts
稲葉 征夫
*九谷村:現在の加賀市山中温泉九谷町